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<人形> 平成2年4月。地元の高校を卒業した次男の新しい東京での生活が始まった。蒲田にある美術系の専門学校で勉強することになったのだ。 次男は元来絵心があるようで、小中学校通して美術の成績は良かった。自分の得意な分野に進んで欲しいというのが私たち夫婦の願いだったし、私の仕事を継ぐというよりは、もっと広い見地から学んで欲しいと、あえてデザイン科を選ばず美術科に進んだ。 彼も一度は寮に入ったが、規則の厳しい生活に馴染めずすぐにアパート生活に変わった。学校近くの6帖一間の小奇麗なアパートだった。わずかな家財道具とベッドだけで部屋は一杯だったが、いかにも若者の都会の一人暮らしという雰囲気に満ちていた。 授業は課題が多く家に持ち帰っての作業が続いているようだったが、私はできるだけ無関心につとめた。本格的な勉強をしていない私のアドバイスなど、逆に彼の創造心をまどわすだけだと思えたのだ。
そんな苦労の一方、気ままな一人暮らしを充分謳歌しているようでもあった。わずかな仕送りとバイトでのきびしい生活だったが、アパートを訪れる毎に見せる都会風に成長していく姿が、私たち夫婦にはまぶしく逞しく思えて喜びだった。 |
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子供たちのそれぞれの生活が落ち着くと、夫婦二人だけの単調さを埋めるかのように、KEIKOの人形作りがはじまった。ビスクド−ルと呼ばれる西洋人形だった。 最初は静岡市内の人形教室に通ったりもしていたが、いくつかの道具が揃うと自宅で作り始めた。顔や手足を粘土で型取りし、中身をくり抜き乾燥させるのだが、家のあちこちに首や手足がころがっている様は私には少し気味悪くもあったが、やがてそれにも馴れていった。 粘土が乾燥すると細かい紙ヤスリで丁寧に磨き、毛髪とプラスチックの眼が入れられた。さらに顔に化粧を施すと、一気に生命を得たように表情が生まれるのが見事だった。一番大変なまつげの書き込みは、いつか私の役目になっていた。 顔が出来るのと同時に洋服作りが進んでいった。デザインを決め型紙を作り裁断していくようすは、普通の洋服作りと同じだった。洋服に合わせ靴やイヤリングなどの小さなアクセサリー類も作っていった。 |