<インドネシア>

 昭和57年、長男は地元の公立中学へ行くのを嫌い、近隣の市にある大学の付属中学を受験したいと言い出した。確かに彼の成績は悪くはなかったし、周りの人達も当然だろうという受け止め方をしていた。だが本当の理由は他にあった。

 地元の中学は坊主頭になるのが条件だった。彼は自分の頭の形がどうも気になるらしく、それがイヤで長髪の許される学校を選んだのだった。何も知らない私たち夫婦は、無邪気に誇らしい気分に酔うのだった。

 そんな周囲に対して次男はあくまでもマイペースだった。それが私たちには何よりの救いになっていた。

 受験を乗り越え進学した兄は、それまで続けていたサッカーをやめ吹奏楽に打ち込みはじめた。付属中学の吹奏楽部は全国レベルの実力を誇っていた。それに引き換えサッカー部は弱かった。彼は自分を引き立てられる部位に、自分をはめ込んでいく感覚に卓越しているようだった。

 長男が中学2年生の夏のことだった。子供たちを学校に送りだしてホッと一息していると、彼が以前インドネシアに行った時にホームステイしたヌリさんから国際電話が入った。今日午後、成田に家族が着くからよろしくとの連絡だった。

 これまでにも国際交流協会の事業で来日し、我が家にホームステイしていた息子のワワンが、母や叔母と一緒に急に渡日したのだった。
「どうしよう・・・」
 私たちがうろたえていると再び電話が鳴った。東京に住むヌリさんの従兄弟のジムハルトという青年から、そちらにはどう行ったらいいのか?との問い合わせだった。
「じゃ、こちらから迎えにいきますから・・・」
 私たちは、学校で授業中の子供達に連絡をすると、すぐに東京に車を走らせた。

 従兄弟の住むマンションは用賀インターを出てすぐの所にあった。周囲の木立の緑が美しい瀟酒な感じの建物で、外国から公務の仕事で来日する人達が多く住んでいるらしかった。エントランスで浅黒い人なつっこい笑顔の青年が待っていた。ジムハルトだった。

 彼の部屋に向かうと懐かしい笑顔でワワンが飛び出してきた。続いて母親のミアリーと叔母のミランダ。そして2才になったばかりの息子を抱いた、ジムハルトの妻マリアンが私たちを出迎えた。

 日本語と英語とインドネシア語が入り混じった妙な挨拶が終わると、ジャワコーヒーの良い香りが部屋に漂った。初めての異国のコーヒーに期待いっぱいで早速手を伸ばした私たちは、カップの中でただようコーヒーの粉にとまどった。しばらく待って粉が下に沈んでから静かに飲むというジャワ式の飲み方を知らない私たちは、目を白黒させながらも平静を装って粉ごと飲んでいたのだった。

 ひと休みするとすぐに静岡へもどることになった。ジムハルト夫妻に見送られ、我々はふたたび東名高速に乗った。
 気さくに英語で話し掛けてくるミアリ−たちに適当な返事をしながら、私はひたすらアクセルを踏んだ。早く自宅に戻りたかった。家に戻れば辞書もあるし子供たちもいる。なんとかなると考えていた。そして、しみじみと英語の勉強を怠けていた学生時代を反省していた。

つづく

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