<別れの朝>

 熱いコーヒーのカップを片手に仕事場に戻った私は、作品と原稿の最終確認を済ませ、それらをバッグにまとめると、着替えのために再び母屋へ戻った。

 時刻は10時少し前になっていた。
「お〜い、そろそろ出かけるぞ」
 姿の見えないKEIKOに向かって声をかけた。返事はなかったが、私は気にもかけずに二階の寝室に向かった。

 寝室に入ると、KEIKOが自分のベッドで横になっていた。
普段から血圧が少し高い彼女は、ときに頭痛がするといって横になって休むことがあったので、私はまた頭痛かなとたいして気にも止めずに、
「そろそろ出かけるから・・・」
 と声をかけた。だが、彼女からはなんの返事もなかった。

 さらに声を掛けつつKEIKOのようすをみると、いびきをかいて熟睡しているようだった。
私は黙って出かけようかとも思ったが、それでもと思い、
「そろそろ出かけるぞ」
 そう云いつつ軽く彼女の肩をゆすった。だがなんの反応も無かった。大きないびきをかいて寝たままだった。

 よほど眠いのかと思いつつ寝顔をのぞき込むと、口元にひとすじ、よだれが流れて乾いた跡を残していた。

 ふいに、KEIKOのいびきの音が妙に大きいのに気がついた。
「もしや・・・!」
 私は、あるテレビドラマでの脳溢血の症状にこんな場面があったことを思い出して、さらに彼女の肩をゆすってみたり、腕をつねってみたりした。だが、何の反応も無かった。私はあわてて枕元の電話に飛びついた。

 救急車が到着するまでの時間が、ただやたらと長く感じた。

 病院の集中治療室の前で、なすすべもなくたたずむ私の脳裏をさまざまな思いが駆けめぐった。

 親や子供達に連絡しなければ・・・
 KEIKOはこのまま死ぬのだろうか・・・
 この先、何をどうすればいいんだろうか・・・

 オロオロしている私の前に一人の若い医師が歩み寄ってきた。
「ご主人ですか?・・ちょっとお話が・・・」
妙に落ち着いた物腰の医師の顔を見つめ返す私に、彼はおもむろに口をひらいた。

「奥様の症状は脳内出血です。ただ、出血の場所が悪いので、お気の毒ですが回復は望めません。手術しても時間が少し伸びるか、また悪くすれば短くなることも考えられます。もしそれでも、と云われるのなら手術いたしますが・・・」

 しばらくの沈黙の後、私は答えた。
「・・・・・・そのままにしておいてやってください」
私は、KEIKOの頭が開かれ掻き回されるような気がしていやだった。天命に従いこのまま静かに逝かせてやりたいと思った。なぜか妙に冷静だった。

 病室のベッドに移されたKEIKOは、朝と同じように大きないびきをかいて眠っていた。
窓から差し込む暖かな秋の陽射しが彼女の寝顔をやわらかく包みこんで、これから迎える死がウソのような穏やかさだった。

 呼び掛ければいまにも起きだしそうな自然な感じだった。ただ、口や鼻に付けられた管とベッドの周囲の機械類が、事態が尋常でないことを告げていた。

 お昼を告げるチャイムが遠くで鳴っていた。

 急いで駆け付けてくれた妹に親や子供達などへの連絡を頼むと、私はKEIKOと二人きりの病室で、彼女の手を摩りながら心電図の上下する光の波をひたすら見つめていた。
やがて、頬を熱いものが流れるのを感じていた。

 医師と看護婦が頻繁にようすを見に訪れ、そのうちにいびきの間隔が次第に広くなり、途切れ始め、ついには聞こえなくなっていった。

 午後2時15分、KEIKOは静かにその息を止めた。

 ひんやりした霊安室に横たわった彼女と二人、まだ到着しない彼女の親や兄弟、そして子供達を待つ長い静寂の時間が過ぎていった。

 私の頭の中で答えの無い自問自答が続いた。つい先頃まで元気にしていた妻がもういない。それが不思議でさえあった。

 頬をふたたび熱いものが流れていくのを感じていた。

つづく

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