<出産>

 昭和44年4月、仕事中の私のもとに珍しくKEIKOから電話が入った。
めったに無いことなので何事ならんと受話器を取った私の耳に、うわずった彼女の声が響いた。
「ねえ、今日は早く帰れる?」
「なんだよ?」
「おねがい!まっすぐ帰ってね。じゃ!」
 それだけ言うと電話は一方的に切れた。

「どうかしたんですか?」
 同僚たちが心配して声をかけてきた。
「いや、なにも・・・・」
 私は平然を装って仕事に戻った。彼女の声の感じから悪いことではないのは想像できた。だが、ときに私の想像を超える行動をする彼女の性格から、内心は少し不安だった。

 私は定時に退社すると急いで帰宅した。すっかり夕食の支度が整ったテーブルを前に、KEIKOが笑顔で座っていた。
「おかえりなさい!」
 彼女の声はいつもの明るい調子だったが、何かが違っていた。
「ねえ、ねえ、早く座って!」

「どうしたんだ?心配したぜ」
 着替えもそこそこに食卓についた私に、KEIKOが小さな声でささやくように言った。
「出来たの・・・」
「・・・・?」
「赤ちゃん、出来たの!」
 ポカンとしている私に、さらに彼女が告げた。
「もう3ヶ月目だって!」
「・・・本当か?」
 私の声も少しうわずっていた。
「うん!今日お医者に行ったの。間違いないって。11月にはパパよ。」
 KEIKOの目が少し潤み始めていた。

「乾杯だ!乾杯しよう!」
「うん、嬉しい?」
「あたりまえだろ。ビール、ビール!」
 そう言いながら私は冷蔵庫へ走った。思わず満面に笑みが溢れた。

 乾杯を言いながらKEIKOはポロポロ泪をこぼしていた。
私が差し出すティッシュで目許や鼻を拭いながら、美味しそうにビールをひとくち飲んだ。
泪でくしゃくしゃの彼女の笑顔が可愛かった。私も一息にグラスを空けた。

「男かなあ、女かなあ。どっちがいい?」
「名前を考えなくっちゃ!何が良い?」
 私の性急な問いかけに少し照れたような笑顔で彼女が応えた。
「まだ、早いよう!」
 私たちは顔を見合わせて笑った。そして何度も乾杯をくり返していた。

 季節は梅雨に入っていた。

 KEIKOの体調は順調に思えた。ふくらみ始めたお腹を大事そうに抱え、ときに鼻歌も交えて楽しそうに母親になる準備をしていた。
 そんな様子を見守りながら、私にはまだ父親になるという実感が無かった。頑張らねばという気持ちだけが走っていた。

「あ、動いた!パパ!動いたよ!」
 この頃にはKEIKOは私をすでにパパと呼んでいた。
「本当か?」
 私が彼女のお腹に頬を付けてみたが、何の変化も感じられなかった。
「あ、また!」
 彼女が楽しそうにお腹をなでた。
「パパが早く会いたいって、もう少しよねえ」
 誰に言うともなくつぶやくKEIKOの幸せそうな横顔を見ながら、私は何も出来ない自分がなぜか損をしているような複雑な気分でもあった。

つづく

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